ジャンル「進撃ミュ」という作品

前回の感想ブログで敢えて言及しなかった点について、もうちょっと掘り下げてみたくなったのでまたしても書こうと思う。言及しなかった点とはこちらの記事のBlade Attackersの項目にてチラッと触れたやつです。

人外絡みグロ耐性なしの俳優推し舞台オタクが推しにひかれて進撃ミュ観に行ったらめちゃくちゃ楽しかった話 - 推し活舞台感想置き場

というのもTwitterで感想を漁っていて少し気になるものを見かけたからだ。それは

キャラありきの2.5を観に来たのに、メインキャラが目立っていなくて残念

というものだ。

これまで自分でも2.5次元の定義とはなんぞやという悪魔のような問答をしていた身にとっては、非常に興味深い新たな知見を得た気分だった。本当はこの点について深く語りたいがそれをしてしまうと今回のテーマから逸れてしまうので、ひとまず程々にしながら進撃ミュの演出の方向性についてなるべく多角的に見ていきたいと思う。

以降に記載する内容は全て個人的見解による数多ある考えの1つに過ぎない、という点をご理解ください。様々ご意見あるかと思うので、そちらはぜひお聞かせ頂けると嬉しいです。

 

ひとまず結論から言ってしまうと、進撃ミュは

2.5次元作品的要素もあるが、それ以外の要素も存在する複合的な総合舞台芸術作品である

という結論になると個人的には考える。

以下にその結論に至った理由を列挙していこうと思う。

進撃ミュを構成するメインの3要素

2.5次元作品としての進撃ミュ

そもそも2.5次元作品とはなんぞや、という定義についてですが、おそらく十人に聞けば十通りの答えが返ってくる。つまり確固たる定義は無いに等しい。しかしそう言っては埒が明かないのでひとまず、下記のように定義して話を進めていこうと思います。

①特に原作が漫画・アニメ・ゲーム等の、キャラクターや世界観がビジュアル化されている2次元的な作品の舞台化作品であること

②原作に登場する2次元のキャラクターたちが、3次元の生身を得た姿を見に行くための舞台作品であること

③メインキャラを目立たせることに演出の主軸が置かれている舞台作品であること

④脚本に回替わり要素が組み込まれていること

 

まず①・②はもう既に言わずもがな、原作の再現度という点においてはかなり高いクオリティで再現されていると言っても過言ではないと思う。④の項目についてはいわゆるグランドミュージカル系の作品もにもない訳ではないが、2.5と評される作品において特に多いと個人的に感じているため記載した。この点について言えば進撃ミュは、脚本に予め組み込まれた回替わり要素はおそらくないため、2.5次元作品的要素は薄いと言ってもいいかもしれない。

問題は③の項目についてだろう。通常2.5次元作品におけるアンサブルという存在は、あくまでもメインキャラをサポートするという役目が大きい。話の繋ぎや状況説明的な意図でアンサブルの数が多数を占める場面は存在する。しかしアンサブルを見せるための演出がされた場面というのはあまり見かけないな、というのが個人的な印象だ。また、メインキャラが登場しない場面構成も少なめであるように思う。つまりこれがメインキャラを見せるための演出、ということになる。2次元のキャラを3次元に具現化する、という目的の強い2.5次元作品において、これは当然と言えば当然かもしれない。

進撃ミュをこの視点で見ると、いくつか当てはまらない点があるのは、観劇された方なら思い当たる場面があるだろう。例えば序盤の調査兵団帰還の場面や超大型巨人が壁を破って街が大混乱に陥る場面。それらの場面においてメインキャラはいるが歌唱していなかったり、そもそも出ていなかったりしている。加えて大人数でのアンサブルコーラスにソロがあったりと、彼らをメインに据えた演出がされているのは一目瞭然だ。他にもアンサブルのみで構成された、メインキャラが一切登場しない場面もいくつか存在している。

他には通過儀礼の集団群舞の場面。メインキャラは出ているが、意図的に彼らを目立たせるような演出はされていない。それどころか訓練兵の1人として、意図的に集団に紛れるような構成になってさえいるように感じる。しかもフォーメーションのセンターにいるのは主役のエレンではなくジャンである(そのジャンでさえ最前列にはいない)。この点については後述するため今は詳細を省く。他にもアンサブルに混じって同列にアクションを行うメインキャラたちが居たりと、メインだからという特別扱いをされていない場面が多々ある。

こうして見ると進撃ミュは、キャラを見せることを目的とした2.5次元作品という視点から見ると真逆のことを行っていることになる。この点が、「キャラを見に行ったのにキャラが目立ってない」という感想に繋がった要因ではないかと思う。

では前述のような演出はどこからきたのだろうか。次はその点について見ていきたいと思う。

 

グランドミュージカル作品としての進撃ミュ

グランドミュージカル(以下グラミュと略)という言葉は、舞台オタクではない方々には馴染みのないものだと思う。こちらも確固たる定義付けがあってないようなものだが、ここでもひとまず下記のように定義して話を進めたいと思う。

○座席数が1,000席程度を超える規模の劇場で行われる作品であること(帝国劇場・御園座梅田芸術劇場博多座・宝塚劇場・四季劇場など)

まぁ簡単に例を挙げるとレミゼミス・サイゴン、キンキーブーツ、オペラ座の怪人ライオン・キングウィキッドといったブロードウェイ作品のような、世界的にメジャーな作品がそれに該当する。ここでは定義に関してはそこまで重要ではないので、先に挙げたような作品を想像して頂ければそれで十分です。

これらの作品を聞いて思い浮かべる光景の中に、大人数でのコーラスやダンスによる迫力あるシーン、というものが少なからずあるかと思う。これはカンパニー規模の大きいグラミュならではの演出と言っても差し支えないだろう。メインキャストだけでなくアンサブルにスポットを当て主張することで、その場面の迫力だけでなく物語全体の説得力や重厚感なども演出する重要な仕掛けとなっている。

進撃ミュにおいて先に挙げた場面は、まさにこれに該当するのではないだろうか。多くの人の感想で目にする「グラミュみたいだった」という言葉は、個人観測の範囲においてだが、アンサブルがメインとなっていた場面について言及したものがほとんどだったように見受けられた。そしてこのような演出は、そもそもカンパニー規模の異なる一般的な2.5次元作品では難しいものでもある。このような演出を取り入れたことが、進撃ミュの2.5次元作品らしくなさ、ひいてはグラミュっぽさに繋がったものと思う。

しかしこの2要素だけではまだ説明しきれない部分があるので、次はその点について見ていきたいと思う。

 

パフォーマンスショーとしての進撃ミュ

先に挙げた2要素でも説明出来ない演出がまだ残っている。特にそれが顕著なのが

①もはやこちらがその場面のメインのような存在感を放つトランポリン&ヘッドスピン

②主役キャラがいるのに別キャラがセンターを務めるダンスシーン

の2場面だ。この2点は2.5にもグラミュにもない要素のように思える。ではこの演出はどこからきたのか。一番しっくりくるのは、パフォーマンスショーとしての演出ではないだろうかと個人的には感じた。

その突出した技術を見せることが目的のショー的な演出だとしたら、先に挙げた①の場面も納得がいく。訓練された兵士たちの身体能力を見せるための表現としてトランポリンやヘッドスピンが取り入れたと考えれば、それらがメインとなる場面構成も理解できる。大阪公演ではヘッドスピンをされていた方がパフォーマンス終了後にポーズを決めキャップとボードを持って退場する所まで見せていたので、余計にその雰囲気が強かった。ただこれはミュージカルとしても進撃の世界観としてもそぐわなかった。東京公演ではそれがなくなりパフォーマンス終了後に心臓を捧げるポーズで暗転という演出に改善されていたので、安心したところではある。

また②の場面においても、「上手い人がセンターになる」というパフォーマーの単純明快な理屈で見れば、実に理にかなったフォーメーションである。つまり、キャストの中でも突出したダンススキルを持っているからジャンがセンターにきた。ただそれだけのことだ。またジャンの周りを固めていた布陣も、その世界でかなり名の通った方々ばかりであったとの情報もある。他にも各キャストの持つポテンシャルを見せるような演出がされている場面が多々あるが、それらもショー演出として見れば納得がいく。

進撃ミュの見所の1つでもある大人数での群舞は、先に挙げた場面以外でも何箇所かで見かける。しかしこちらもストーリーや登場人物の感情を補完するミュージカル的手法のダンスというよりは、ダンスそのものを見せるためのショーとしての演出要素が強かったように感じた。

 

またこれは要素という程のものではないが、特に劇場(のとりわけ前方席)で観劇した際の、大阪の某有名テーマパークのようなアトラクション感を非常に強く感じた。開演前の地響きの演出やプロジェクションマッピングと融合したアクション、巨人パペットを使った見せ方が、そこに深く影響していたように思う。それらを劇場で目にしていると、私個人は客席に迫って来るような感覚を覚えた。「観劇」という行為は比較的俯瞰的な立場で行われる印象が強いが、進撃ミュにおいては自分も登場人物の一人となり「体感する」という表現が相応しいような、舞台と客席の一体感を非常に強く感じた。

先に挙げた様々な要因が、進撃ミュを様々な感覚で捉えられる多面的な作品にした大きなポイントだと私は感じた。

 

そもそも2.5次元作品とは何か

ここで進撃ミュを紹介するメディア記事を見てみると、ほとんどの媒体で「2.5次元作品」という表現がされている。先に私は2.5次元作品らしからぬ進撃ミュの演出について書いていたが、世間一般では進撃ミュは「2.5次元作品」として括られている訳だ。しかし蓋を開けてみると進撃ミュは2.5らしからぬ要素が盛り込まれているため、それが驚きとなり大多数では好意的な反響となった。つまり2.5次元作品に対する世間一般的な分類や認識と、進撃ミュの演出方針に乖離があったということになる。

では世間一般的な認識としての2.5次元作品とは何なのだろうか。これは私の主観だがおそらくは先に挙げた

①特に原作が漫画・アニメ・ゲーム等の、キャラクターや世界観がビジュアル化されている2次元的な作品の舞台化作品であること

②原作に登場する2次元のキャラクターたちが、3次元の生身を得た姿を見に行くための舞台作品であること

ではないかと考えている。そのため、特に

③メインキャラを目立たせることに演出の主軸が置かれている舞台作品であること

という認識で観に行った方々にとっては、思ってた2.5次元作品と違う、という感覚になったのではないだろうかと推測する。

しかし①②のように2.5次元作品を定義すると1つ疑問点が生じる。それは、「東宝や宝塚で興行されるメディアミックス作品は2.5次元作品ではないのか」という疑問だ。この2月3月の帝劇ラインナップを見れば、キングダム・SPY×FAMILYとメディアミックス作品が続く。また昨夏には千と千尋の神隠しも上演されている。宝塚の代名詞ともなっているベルばらはメディアミックス作品の先駆けでもあるし、近年ではシティーハンターなど積極的にメディアミックス作品を展開しており、その数は相当数になる。ここから、いわゆるグラミュ系統の作品を展開する主催団体も、今や積極的にメディアミックス作品に力を入れている時代だということが言える。しかしそれらの作品に対して「2.5次元作品」という表現は使われない。先の①②が世間一般的な2.5の定義ならば、本質的な部分は変わらないというのに。私はこの点に大いなる矛盾を感じてしまう。

とてもメタ的な部分で区別するならば、ネルケプランニングマーベラスといった、いわゆる2.5をメインに手掛ける企業が主催する舞台作品を2.5次元作品と表現しているのだろう。しかし主催団体で舞台作品のジャンルを分類するというのは、非常にナンセンスで短絡的な行為であると私は考える。

そもそも2.5という言葉には、若手をメインに据えた規模の小さいクオリティの劣る作品、というニュアンスが含まれていたと個人的には思っている。その言葉が生まれた当時の一般的な商業舞台作品よりも格下の位置づけとして、2.5という言葉が存在しているように感じていた。確かに黎明期の2.5次元作品をみると、とりあえず何となく原作に似せてみましたと言わんばかりの衣裳やウィッグ・美術セットはどことなくちゃちで、脚本もよく分からない原作改変があったり、役者の演技もひとまず見られるレベル、という作品が目立ったのは事実だろう。③に定義したような演出も、カンパニーの規模も予算も少なかったためにメインキャラを主軸にした演出にせざるを得なかった背景があったのではないだろうかと個人的には推測している。

しかし2.5というジャンルが受け入れられ、市場規模も大きくなっていくにつれその認識は変化していったように思う。ひとつの作品にかけられる予算が増えたことで細かなディテールに拘われるようになり、それを観た観客がよりレベルの高いものを求めるようになり、ジャンル全体のレベルも底上げされた。それがファンを増やし、落とすお金が増え、予算増に繋がり……という流れに昨今はなってきているように感じる。若手キャストメインなのは大きくは変わらないが、育てる環境が整ってきたことによりよりレベルが上がっているし、脇役としてたまにびっくりするような大ベテランを据えた作品もある。衣裳やウィッグもより再現度が高くなり使用素材の質も上がり、大掛かりなセットを組む作品も珍しくない。いわゆるグラミュと同じとまではいかないにしても、かなり遜色ないレベルの作品が生まれているのが、今の時代における2.5次元作品ではないだろうか。

 

ジャンルとしての「進撃ミュ」

だいぶ話が逸れてしまったが、話を進撃ミュに戻したいと思う。

この進撃ミュという作品は、一般的な定義としての2.5次元作品からは逸脱した点が多々ある。先に挙げた演出点の違いもそうだが、いわゆるアンサンブルの数を見てもそれが言える。今回Blade Attackersと呼ばれるアンサンブルの数は20人。この数は一般的な2.5次元作品のカンパニーとしては規模がかなり大きい方だ。グラミュカンパニーの規模に近づいていると言ってもいいかもしれない。またチケット代を見ても、今回の公演はS席相当席で13,000円となっている。一般的な2.5次元作品のS席相当席はおよそ10,000円前後が多く、帝劇作品は15,000円である。チケット代を見てもグラミュにかなり近い価格設定となっている。作品の規模やクオリティからすれば妥当な値段だったと観た方は分かるだろうが、2.5次元作品という認識からみると高いという印象を受けるだろう。

色々書いてきたがつまり何が言いたいかというと、進撃ミュという作品は2.5次元作品という枠にはまらない作品であり、それがこの作品の良さでもある、ということだ。だから人によっては思ってたのと違って合わなかった、という感想になるかもしれない。それはそれでいいと思う。なぜならこの進撃ミュという作品は、様々な舞台芸術の要素を取り入れた、とても複合的で多面的な性質を持つ作品だからだ。もはや「進撃ミュ」というジャンルだと言ってもいいかもしれない。だから、この要素は好みに合ったけど別の要素は好みではなかったということはきっと起こりうるだろう。

だからこの進撃ミュを表現する手段として単純に2.5次元作品と括ってしまうのは、とても短絡的ではないかと思ってしまう。なぜならその括りが、作品の本質を隠してしまうかもしれないと考えるからだ。メディアの宣伝文句が個人の判断に与える影響は、意外と大きなものだ。もし、2.5次元作品だと思って観たら違ったから微妙だった、2.5次元作品だから観ない、となってしまったら。それは非常にもったいないことだと思う。だからどうか、そういった分類だとかの垣根をとっぱらって、1個の舞台作品として進撃ミュをぜひ見て貰えると嬉しいなと個人的には願う。