ISSA in Paris 脚本考③

前回に続いて脚本についての感想です

前回の投稿はこちら

ISSA in Paris 脚本考② - 舞台感想置き場


前回は脚本構成について書いたので、今回は脚本設定についてのことを
再度になりますが、あくまでいち個人の感想ならびに批評であり、作品を批判するものではないことをご理解頂けますと幸いです


今作の脚本、個人的にどうしても腑に落ちない部分が2点ある。
①海人が親の七光りと批判されるほどに大町絹子は有名人なのか
②研究者が立てる仮説として一茶パリ説はあまりにファンタジー過ぎないか
という上記2点だ。


まず①。現実的に考えて俳句を研究するいち研究者が大衆の認知する存在足り得るかと言えば、個人的な感覚で言えばNOだ。私も俳諧に関しては門外漢であり、研究者の名前など全くもって知らない。その界隈の狭い範囲で有名人だろうことは認めるが、海人の曲が投稿された不特定多数の人間が見るYouTubeにおいて界隈人が如何程いるのか。限りなくごく少数だろう。そんな世界で批判されるような程影響力を持つ親だとは私は納得出来ないのだ。故に、親の七光りと言われた事を一因としてスランプに陥ったという設定がどうにも咀嚼出来ない。あくまで個人的な意見だが、俳句を英語にして歌っただけじゃねwwwとか、俳句を羅列しただけの中身のない歌詞、など、自分の作品に入れたアイデアを直接的にディスられる方がクリエイター的にはダメージを受けるのではないかと思うのだ。
次に②。学者とか研究者が提唱する仮説というのは、現実的な証拠や論拠に基づくものであると私は考えている。「鎖国下の日本において一茶がパリへ行っていた」という説はフィクションとしては面白いが、研究者が唱える仮説としてはあまりにも現実離れし過ぎているように思える。なぜなら一茶が江戸からどのように長崎・出島へ行き、パリへ向かったのかという説得力のある証拠を、現時点においては提示出来ないだろうと考えるからだ。著書の出版パーティーが開かれる程の研究者である大町絹子が、果たしてそのような現実離れした仮説を立てるだろうか。そこが疑問となって、あらすじ公開時からずっと引っかかっている。母の遺した原稿を辿って旅に出る、という設定ならば、大町絹子は歴史小説等を書く作家という設定でも良かったのではないか?と個人的には思う。フィクションを描く作家であれば、現実離れした設定でも小説のネタとして受け入れやすかったように個人的には思うのだ。例えば、元々一茶に興味があり、他作の執筆の傍ら一茶を題材にした作品のアイデアを長年温めていて、死期を悟り最期の作品として取り掛かろうとするも道半ばで…みたいな感じとか。若しくは海人父のように市井の研究者であったなら、多少飛躍した説でもまぁ専門職じゃないしな、でなんとか多少は納得できる。とにかく、名の通った研究者がそんな突飛な仮説を立てる事が個人的にずっと腑に落ちてない。


今作は現実社会をベースとしてその上に歴史ファンタジーが乗っているような構図であると考えている。故に、土台となる現実社会の設定が揺らいでいると作品そのものの説得力が減ってしまうように見えるのだ。先に挙げた二点は、海人という主人公のパーソナルな部分に関わる重要な設定だ。そこが納得出来てないために作品全体に対してなんとなく消化不良を起こしている、というのが私の現状となっている。

ISSA in Paris 脚本考②

前回に引き続いて脚本への率直な感想を述べたいと思う

前回はこちら

ISSA in Paris 脚本考 - 舞台感想置き場


再度になりますが、こちらは作品を批判するためのものではなく、観劇して感じた事を消化するために筆を執るものです

また現時点において筆者(私)は初日を観劇したのみの情報と記憶を頼りに書いています

曲や演出にはとても満足しているので、今後再演を重ねる時にブラッシュアップして欲しいとの願いを込めて書いております


先のブログにも書いた通り、一つの作品内で取り上げているテーマが多く、結果この作品が何を最も訴えたかったのかがよく分からなかった、というのが初回観劇した私の感想だ。


まずこの作品における海人と一茶の関係性について整理しておこうと思う。先のインライでも言われていたように今作の一茶は、大町絹子が書いた論文の中におけるキャラクター、となっている。そのため世間一般的な一茶像とは異なる。こうであれば、という絹子の想像によって作られた一茶像だと言えよう。
次に海人と一茶の関係について。こちらもインライで言われていたように、海人は絹子の遺した原稿の世界に入り込んで絹子の描いた一茶の生き様を追っていく、という形だ。2幕で一茶の着ていたローブを海人が羽織ってフランス革命前夜のパリ市民に混ざったかと思えばローブを脱いで一茶に戻したりまた一茶が海人にローブを羽織らせたりしている。この一連のローブのやり取りから、今作の一茶は絹子が海人に伝えたかったメッセージを具現化したものであり、海人にとっては自己の分身として自分の内面に向き合い対話するための存在であると言っていいと思う。絹子の遺した想いと海人の心の内が重なった時、海人は囚われていた自己を解放して前に進んでいこうとする。つまりは、遺稿に書かれた言葉が時を超え、海人を変えるための力となるのだ。これがこの作品におけるストーリーの主軸でありテーマであると私は考えている。


ここからが本題だ。先の前提をストーリーの主軸として観た時、年金制度改革反対デモの描写に対して私は強烈な違和感を覚えた。何故なら私の記憶する限りにおいて、デモの描写がストーリーの主軸である海人に大きく関与しているとは感じられなかったからだ。では何故あの描写があったのか。それは先の私のブログにも書いたように、過去のフランス革命と現在を重ねるための脚本上のメタ的な構成とするためなのでは、と私は感じた。フランス革命の時代から現在に至るまでその魂は引き継がれ今もパリ市民たちは声を上げ抗っている、ということを描きたかったのだろうなと思う。今作の主軸にもある、言葉が時を超え人と人を繋ぎ誰かや何かを変える、というテーマをここでも提示したかったのかなと感じた。しかし一方で、現代フランスのデモが今作の主人公たる大町海人の心境に何かしらの変容を与えたか、と言えば、個人的な感想としてはNOだ。現代パリにおいて海人の心境に大きな変化を与えた存在といえば、ダンススクールの生徒たち、特にレミーの存在が大きかったように感じた。故にストーリーの主軸は海人であるのにデモの場面が海人に関与しているとは言い難い表現であると私には映ってしまい、結果浮いて見えてしまったのだと思う。加えてデモの描写はインパクトが強く、海人を通じて提示したいテーマとかち合ってしまった。どちらをより強く伝えたいのかがよく分からなくなってしまったのだ。
加えてもう一点、私の引っかかっている事がある。それは、「アジア人差別」「年金制度改革反対デモ」の取り上げ方が中途半端ではないか、という点だ。ルイーズの口から語られるアジア人差別は彼女がどのように感じてどう行動しようとしているのか明確に語られないし、年金制度改革への反対デモも何故人々が声を上げているのか理由が明示されていない。それぞれが個々の、現代フランスにおける事象として表面的に描かれてしまっているように見える。対してフランス革命の方は、テレーズやラファエルを始め人々がどう感じ何を求めているのか、部分的とはいえ描かれている。過去フランスの描写からは革命に加わる人々の個々の声が聞こえるのに、現代フランスの描写からは個々の声が聞こえないのだ。脚本的にこの二つを重ねたいなら描き方を合わせた方が良いのではと思うし、出来ないなら割り切ってカットする、という選択肢が必要だったのではと思う。
現代フランスの描写から個々の声が聞こえないと書いたが、個人的には描けなかったのではと思う。何故なら今のパリに生きるフランス人が脚本に携わった作品ではないからだ。現在進行形でそれらの社会問題に直面している人々の声は当事者でしか描けないと思うのだ。日本という外野にいる我々は、彼らの声を代弁するための言葉を持たない。故に描けない。だから表面的な描写に留まってしまったのではと思う。そして今現在もそれらの社会問題に苦しむ人々がいる事柄を、外野の我々が感動を体感するためのエンタメとして無闇に消費していい物なのか、とも私は疑問に思う。この作品ではフランス革命も描かれているが、それは既に確定した過去であり、当時を知る者はいない。だからこそある程度自由に(リスペクトを持った上で)描いても構わないと思う。だが現在のフランスが直面している社会問題は不確定な未来に繋がるものであり、今そこに生きている人々がいる非常にデリケートなテーマだと個人的には考えている。それを感動を演出するための脚本構成として消費してしまっている描き方に疑問を感じているのだ。
つまりはストーリーの主軸ではないのに、テーマを補強するための脚本的な都合としてそこそこインパクトのある描写を中途半端に入れているために、初見では理解しづらい脚本となってしまっているのではないか、ということを私は言いたい。言葉が誰かや何かを変える力になる、というメインテーマは、現代フランスの社会問題を描かずとも海人の物語のみで十分伝えられたのではと感じた。実際色々な人の感想を見ていると、二回目以降で理解が出来た、と言っている人が多いように個人的には見受けられる。それではダメだと思う。海外展開を目指す作品なら尚更だ。日本で上演されている海外ミュージカルもいくつか観ているが、初見で作品のメインテーマが明快に伝わってくる物がほとんどだと感じている。無闇矢鱈に単純なストーリーにする必要はないが、最も訴えたい事が初見でも明確に伝わるような脚本ではあるべきだと思う。脚本以外の部分には個人的に非常に満足しているので、脚本だけどうにかブラッシュアップして再演や海外公演に繋げて欲しいと切に願う。

 

 

まだたった一回の観劇でここまで理屈捏ねた感想をダラダラ垂れ流してるの私ぐらいだろうし、小難しい事考えずにシンプルに音楽や演出に感動してればもっと気楽に楽しめたんだろうな〜ってのは自覚してる。ただ某演出家も(作品の出来は)脚本が八割だって言ってたし小難しいこと悶々と考え込んでしまうのは昔からのどうにもならない特性なのでしゃーねーなー、という気持ちで書いた。

ISSA in Paris 脚本考

まず始めにこれはあくまで個人の所感を記したものであり、皆さまがそれぞれに抱いた感想を否定するものではありません
下記のような事を書いておりますが、作品そのものは2回目の観劇が待ち遠しい程に気に入っています
また初日の観劇で受けた印象を元に書いているので、今後複数回観た時に感想も変わる可能性があります

※2026.01.16追記有


ISSAの脚本、一言で言うと詰め込み過ぎの印象を受けた。海人の成長や社会問題の提起など、一つ一つはテーマがありメッセージ性もあるのに詰め込んでしまったせいで、この作品のメインテーマが霞んでしまった印象だった。
ストーリーの主軸としては、海人が母との確執を乗り越え成長していく物語、でおそらくいいと思っている。そのための媒体となるのが小林一茶と俳句であり、そこに様々な人や時代が関わってくる、というのが全体の脚本構造だと思う。
その中で特に自分が違和感を感じたのは、現代パリパートの年金制度改革反対デモの場面だ。ルイーズがこのデモに参加してるような描写が序盤にあったが(ルイーズが海人を迎えに行く場面のやり取り「今日は参加しないのか」「大事な仕事があるの」より)、その後ルイーズがこのデモに言及している場面がなかったように思う。デモの描写自体はその後も出てきていたが、ルイーズは参加していなかった(と思う、記憶違いだったら申し訳ない)。ルイーズ自身は日系フランス人であるが故の人種差別を受けてきた経験を語っており、それに対して声を上げていると言っている。ここからルイーズというキャラクターの核に、欧米圏におけるアジア人差別というテーマがある事が分かる。そんな彼女の信念と、振付師という仕事を通じて出会った人々によって、海人の心持ちに変化が表れる。この時点で、ルイーズと年金制度改革反対デモの関連性がかなり曖昧になってしまった印象だ。
おそらくだがこのデモを作中で描いたのは、フランス革命を現代と重ね合わせるためではないかと推察している。私もリアルタイムで件のデモのニュースを見ていた当時、高校生といった若者も参加していた事を知り、フランスの国民性に受け継がれた革命の記憶が深く根付いていると感じた記憶がある。過去と現代をシンクロさせるという構造の今作において、フランス革命と対になる現代の何かが必要であり、そこに年金制度改革反対デモが宛てがわれたのではないか。「何かに抗う人々」という今作の根底にある大きなテーマとして見れば、デモの描写はそれに当てはまると言えよう。それ自体は構わない。だがストーリーの主軸である海人の物語にあまり関与しているように見えず、脚本上の対比構図を完成させるためのパーツとして挿入されたように見えてしまった点が、自分の違和感となったのではないかと思った。端的に言えば、年金制度改革反対デモの描写だけストーリーから浮いて見えてしまったのだ。
そしてパンフにも書いてあったが、「格差」をテーマにしているという点。今作のメインキャラにおいて格差に苦しめられているのは一茶・テレーズ・ルイーズであり、海人は三者三様の生き様を見て己と向き合っていく、という構図になっている。一茶は貧しい環境からの脱却を望んで日本を飛び出し、テレーズは階級社会に苦しめられている現状を打破しようと革命に参加している。一方でルイーズはアジア人差別に言及しているが、彼女がどのような経験をしてどのように行動しようとしているのか、という具体的な描写がない。アジア人差別というそれなりに重さのあるテーマを提示しておきながら全くと言っていいほど触れられずに終わってしまったと感じた。このテーマについて何か海人の心持ちに関わってくる展開がもう少しあれば、物語により深みが増したのではないかと思われる。
今作の最も重要なテーマは、「言葉が時代を超え国を超えて繋がり、誰かや何かを変える力を持つ」ということだと私は感じた。そのテーマを海人というキャラクターを通じて観客に提示する、という物語の核がある。そこについては徹頭徹尾一貫していてブレていないと思う。しかしそこに付随する「年金制度改革反対デモ」「アジア人差別」というなかなかインパクトのあるテーマが提示されたにも関わらず、海人との関わりがハッキリ見えなかったためにテーマがボケてしまったように私は見えた。あの二つのテーマがどんな意図で入れられたのか、という疑問を抱いている間に物語が終わってしまった、というのが初日を観た私の感想だ。複数のテーマを扱うならそれぞれキチンとケリをつけて欲しいし、出来ないなら見直すべきなのでは、というのが脚本に対する現時点(観劇1回目)での思いである。

 

※2026.01.16追記

ルイーズとデモとの関わりについて、公式PVが出されたことによりデモに参加している描写が確認できたため、デモへの参加がルイーズなりの声の上げ方である、という解釈が出来ました。当方が2階席だったためしっかり確認できていなかったのが原因です。

ただ今作の主軸である海人の物語への関与は未だ薄いように感じられるため、2回目以降その点について確認したいと思う。

ミュ鶴担パライソの亡霊オタクが見た2部演出

書いた人の属性:四季から入ったミュオタくる民

幼少期から子供向けミュージカルに触れて育つ

観劇比率:グラミュ系他海外作品≒2.5系、年1ペースで四季

 

結論から言うと、私個人としては2部冒頭のパライソ関連演出に対して肯定的な意見です。何故そう思うのかという事を自分なりに言語化したので共有出来ればと思い書き起こしました。

 

冒頭で流された円盤収録のバクステ

私の現地は大阪のみだったので、そこまでなるべくネタバレを踏まないよう薄目でTLを追ってたが、賛否両論上がったこの演出についてはあまりにも話題になりすぎて薄ら知っていた。自分の推しキャラ・推し俳優が関わった作品に纏わる話題だけに、パライソ(のミュ鶴)に対してクソデカ感情を抱いている自分が観た時どう感じるのか、現地まで正直不安な気持ちもあった。

いざその時を迎え、私は周りも憚らず号泣した。

円盤でバクステを初見した時も家で大号泣したのだが、その時の感情とは異なる心持ちで私は、大阪城ホールのスタンド席で涙を流していたような気がする。

公演中にバクステ映像を流すというのは一般的にみても異例だし、特にカテコもキャラとして喋るスタイルの刀ミュにおいては殊更衝撃が強かっただろうなと思う。だが私は、公演本番という表側でバクステという裏側を流してくれたのは良かったなと思った。だって、裏がなければ表は成立しないからだ。どうしても体現されたキャラという表ばかりに注目されがちな2.5次元というジャンルにおいて、これはとても大事な事だったのではないかなと思うのだ。

今回流されたのはパライソの円盤に収録された映像なので、買った人でなければ知らない映像だ。それをこの音曲祭で流したのは、コロナによって色んな苦労を強いられた役者たちの想いをより多くの人に届けるためだと思った。色んな方も言っているが今回の音曲祭は特にコロナ以降、刀ミュカンパニーが経験してきた様々な困難を供養するための祭り、という意味合いが強いと思う。彼らがどんな経緯を経てどんな想いで今この公演を行っているのかという事を周知させることで、その意図をより明確に伝えようとしたんだろうなと思った。舞台作品は特に、役者の人生経験が役を通して観客にダイレクトに伝わりやすい表現形態だと思っているし、それが良さでもある。なので2.5次元界隈でありがちなガワ(役者)の人格を出すなキャラに徹しろ、というのは些か乱暴な主張だと個人的には思っている。今回敢えて役オフの役者の姿を見せ彼ら自身の言葉を流す事で、彼らも自分たちと同じように葛藤を抱えた人間でその想いを抱えた上で役として生きている、体現されたキャラと役者個人の想いは表裏一体であるという事を改めて認識してもらいたかったのではないかなと。そうして私たちファンと同じように一歩ずつ乗り越えて来たという事を共有する意図だったのではないかと思うのだ。

だからコロナ以降の悔しかった想いを供養するという意味合いのある今回の音曲祭で、あのバクステを流す事はとても重要な演出だったと個人的には感じた。そして私はその演出意図が嬉しかったし、自分の抱えてきた想いも供養して貰えた感覚になって人目も憚らず泣いたのだ。

 

パライソ1部楽曲を使った演出について

バクステ映像から続くパライソ1部楽曲として披露されたのは、「誰も教えてくれない」「三万七千の人生(ライブ)」の2曲だ。私が観測した範囲内ではこの2曲が披露された事に対する様々な意見が飛び交っており、その量は他の楽曲の比ではなかったように感じた。何故この2曲だけこんなにも意見が出たのかと考えてみたがおそらく、全会場共通楽曲の中でこの2曲だけが、刀剣男士の持ち歌ではなかった事が一因ではないかと結論付けた。「誰も教えてくれない」は島原の幼き兄弟の曲であり、刀剣男士も参加しているとはいえコーラスのみ。「三万七千の人生(ライブ)」は鶴丸のソロではあるが、この曲において鶴丸天草四郎としても歌っており、刀剣男士の曲でありながらそうでは無い一面も持つ。故に刀剣男士が持ち歌ではない曲をカバーした事に対してあんなにも意見が飛び交ったのではないかと思う。

だが考えてほしいのは「静かの海のパライソ」という作品の持つ刀ミュ作品内における異質性だ。刀ミュ本公演作品では任務を通じて刀剣男士が悩み葛藤する姿をメインとして描くのがセオリーだが、パライソではその姿を描きつつも島原の民衆たちを主人公として描いている。パライソ1部冒頭が民衆たちの歌で始まるのが、その異質性を如実に現しているだろう。但し、グラミュとしてみれば、内容はよくあるグラミュ文脈と演出が展開されている。故に「静かの海のパライソ」はグラミュ寄りに作られた2.5次元作品と言える。そのため比較的グラミュに馴染みのある自分にとってはとても世界観に入りやすかった。

加えてパライソ1部ミュージカルナンバー全24曲のうち10曲程が、民衆などその時代に生きた人々の目線で歌われた楽曲だ。全本公演作品中で1部楽曲中に占める割合は群を抜いて高い。つまり、パライソという作品を表現するために民衆の曲がセレクトされるのは必定ではなかっただろうかと考えるのだ。そしてそれを男士たちが歌うのは、かの戦いを忘れぬため、皆に伝えるためだと思ったし、鎮魂や祈りのようなものでもあると私は感じた。そしてあの曲をパライソのメンバーでカバーした事も大いに意味があると感じた。それらについては我が推しがキャストブログに書いてくれた事が全てだと思うのでそれを是非読んでほしい。少なくとも私は、あのような形でまたパライソの楽曲が聴けたことが嬉しかった。

 

総括

今回私がこのような事を書いたのは、これらの演出に対してあまりにも批判意見が目に付いて悲しい気持ちになったからだ。ミュージカル刀剣乱舞が演劇作品である以上、演出には作り手のエゴが入る。正直なところそれが合うか合わないかは個人差だし嫌なら観るな、としか言いようがない。全員の好みに合う作品なんて存在しないし一個人の好き嫌いを振りかざしたところで所詮作り手の作りたいものしか作らないからだ。だが私はそれが演劇作品の良さだと思ってるし、自分に合うものを取捨選択するのも楽しさだと感じている。

今回の祝玖寿乱舞音曲祭は、先にも書いたが刀ミュカンパニーが辿ってきた歴史の振り返りと飲み込んできた涙の供養だと個人的には思っている。その視点で見ると、バクステを流してからのパライソ楽曲披露という演出にも納得出来る。カンパニーが現実世界で直面してきた困難とそれを乗り越えて作り上げてきた作品を見せる、という意図なのだと理解出来たのだ。そしてそれを語るには、コロナによるほぼ全面中止を経験したパライソカンパニーが最も相応しいのだという事も。パライソの亡霊をしている私にとってそれは、とても嬉しい事だった。

それに対してバクステ流されて一部楽曲が切り取られてただの演目として扱われて酷い(ニュアンス)などという意見は正直腹に据えかねる。勝手に持ち上げといて他作品sageするんじゃねぇ!パライソも他作品も「同等にメッセージ性を持ったただの演劇作品」でしかねぇよ!すいませんこれは完全なる私怨です。

グラミュ系のミュージカルコンサートのようなものを見れば、劇中歌がピックアップされることもその作品に関わりない人が歌うのもよくある事だ。今回は刀ミュの記念コンサートでもあるのだから、それと同じようなものだと思えば何も違和感はない。殊2.5次元作品に関してはキャラメインで描かれる事が多いため、楽曲もキャラに帰属するもの、というファンの認識が強く誰かがカバーすると盗った盗られたという論争になりがちなような気がする。だがその楽曲のオリジナルメンバーでない男士たちも、その楽曲に敬意を持って参加していた事は観ていてとても伝わってきた。それでいいじゃないか。むしろそこにパライソからあの2曲が選ばれた事が私は嬉しい。だってそれだけ優れた楽曲だと認識されている何よりの証拠だと思うからだ。それにあの2曲だけがピックアップされたからと言って、「静かの海のパライソ」という作品の持つ魅力が損なわれる訳ではない。個人的な考えだが、ミュージカル楽曲はあくまでも作品そのものに帰属していると考えている。だから歌が歌い継がれる事は、作品が語り継がれるのと同意だと思っている。歌い継がれなければ、語り継がれなければ、作品そのものは風化してしまうと思うのだ。だから今回パライソからあの2曲が選ばれて披露され、新しいメンバーにも引き継がれた事に私は大きな意味を感じた。そして楽曲披露の前にバクステを流す事で、この作品にパライソカンパニーが込めた想いも共有した上で披露されたと思っている。「静かの海のパライソ」という作品が刀ミュの歴史において図らずも背負ってしまった大きな役割を、これからみんなで引き継いで前に進んで行くんだという強い意志を感じて、私は大阪城ホールのスタンド席で泣いたのだと思った。

人生における出会いとすれ違い、別れを辿る旅

もつまきペア初演時タイミング逃して観に行けなかった念願の「ストーリー・オブ・マイライフ(SOML)」を三年越しに観に行って号泣して帰ってきた話を備忘録的に書き残したいと思う。

観てきた回はこちら↓

f:id:iorin_0515:20241118232823p:image

もつまきペアアフト回をもっくん推しフォロワーさんと連番1桁列で観られるという奇跡✨️自名義FCありがとう🙏

全体の感想

ストーリーについて

初見でストーリー展開に翻弄されることでしか得られない新鮮な気付きを体感したくて、公式が上げてるあらすじとミニトピックをサラッと見ただけの事前情報ほぼゼロで臨んだ。場面のリフレインが多くて戸惑うことはあったけど、最後にパズルのピースがカチッと全てはまった時の衝撃と涙は凄まじいものだった。感動と言うにはあまりにも切なくて苦しくて、だけどどこか温もりも感じる、不思議なクリスマスのお話だった。

 

アルヴィンとトーマスという二人のキャラクターは、どちらの人格もおそらく多くの人が内面に持ち合わせているだろう性格を抽出したようなキャラクターだった。私の中にも、子どものように世の中の不思議なものに無邪気にはしゃいでいたいけど大人になっていく周りに置いていかれる恐れを抱えたアルヴィンがいるし、無邪気な友人に対する羨望と鬱陶しさを抱えて社会に溶け込むために普通であろうとするトーマスもいる。トーマスがアルヴィンにしたような仕打ちに少し通ずるようなことをしてしまった経験もある。多くの人たちが背負ってるかもしれない業や抱えているかもしれない葛藤という人生の苦さを、ファンタジーという甘いオブラートに包んで飲み下す、そんな感覚の作品だったように思う。

 

先にリフレインが多くて戸惑ったと書いたが、アルヴィンの父親の葬式の場面のリフレインを特にそう感じていた。1回目の同場面が再現された時一瞬、あらすじが印象に残っていたのもあってアルヴィン本人への弔辞のターンか?と思ってしまったのもある。何故この場面が繰り返し登場するのかなかなか分からなかったし、何故アルヴィン本人の死について言及しないのかやきもきもした。だが何度目かのその場面を観ていた時、はたと気付いた。アルヴィンがトーマスに対して繰り返し言う「遅刻だよ」という台詞。あれはトーマス自身のアルヴィンに対する負い目が表されていたいたのではないかと。アルヴィンを置いて故郷を出て、街に出てこようとしたアルヴィンを想いとは裏腹に手助けして最後の最後で裏切って、アルヴィンからのクリスマスカードに何年も返事を書かずずっと放置して、亡くなった知らせを受けてやっと故郷に帰った。そんな不義理な自分の業に対する自責と後悔の念の表れがあの場面のリフレインだったのかもしれないと。

そして終盤まで言及されなかったアルヴィンの死についてもやはり、リフレインによって伏線が張られていた事に気が付いた。アルヴィンが繰り返し語る「ジョージ・ベイリー」のお話。二人で「素晴らしき哉、人生!」を見て楽しかったクリスマスの思い出への執着で何度も語っているのかと始めは思っていた。だが作中でアルヴィンが語った「ジョージ・ベイリー」が自殺を図ろうとしていたという物語と「橋」が繰り返し語られた事によって、「アルヴィンの死因は橋から落ちたことである」という事実に辿り着けるようになっていたのだ。観ながらずっと気にかかっていたアルヴィンの死という物語の核を、その仕掛けによって終盤に差し掛かる直前に気付き、その後台詞として「アルヴィンはクリスマスイヴに橋から冷たい水の中に落ちて死んだ」という事実が明かされた時、その物語構成の上手さに恐れ慄いた。

弔辞を書くための記憶を辿る旅という前提で、記憶のフラッシュバックというギミックを使い無理なくリフレインを成立させる。そのリフレインによって深層心理に迫っていく、というこの脚本構成の複雑さと精密さに圧倒される作品だった。

 

そしてこの物語の核となるアルヴィンの死。無粋とは知りつつもその真相について自分なりに推察してみたのだが、本当は死ぬつもりなんてなかったのではないか、という結論に至った。これは完全に自分の想像でしかないが、アルヴィンの無意識下に刷り込まれた「ジョージ・ベイリー」の物語に誘われて本人もあずかり知らぬうちに橋に向かい、気付いたら冷たい水の中だった、という真相なのではないかと。

作中で「バタフライ効果」が一つのキーワードになっているが、幼き日にアルヴィンがトーマスに与えた物語が蝶の羽ばたきだとすると、その羽ばたきがトーマスが街を出る追い風となって二人のすれ違いという嵐を引き起こし、アルヴィンの死という結果に至った、とも考えられる。作中で歌われる「バタフライ(蝶)」を聴きながらあの場面のアルヴィンを見ているとそのように思えてくるのだ。だからアルヴィンは二人のすれ違いの切っ掛けとなった蝶の幻覚を見て、無意識になぞらえた「ジョージ・ベイリー」の物語に導かれ追い掛けた先が橋で、その蝶に手を伸ばしたら落ちていた、というのが真相だったのではないかなと、邪推ながら思った次第だ。

 

もう一つ語りたい事がある。それは、「追いかけていたのは、君じゃなくて僕だった」というキャッチコピーについてだ。恥ずかしながら公開されていたあらすじだけではこのキャッチコピーの意味が全く分からなかったのだが、物語を観て理解しその上手さに唸ってしまった。

この物語は主にトーマスの視点で描かれている。故郷を出て、残してきた親友が自分を追いかけようとしてきたけどそれを無視してしまった、というトーマスの後悔から始まる。しかし弔辞を書くにあたり親友の幽霊と共に過去を思い返していくと、自分の中にある彼が与えてくれたものの大きさに気付く。「物語は既に自分の頭の中にあるのです」というトーマスの台詞の通り、作家として活動することは親友の与えてくれた物語を追う事であり、物語を通じて親友の姿を追っていたのは自分だった、という事に気付いたのだ。だから繰り返された弔辞の約束のくだりのトーマスの台詞「うん、って言ったら帰っていい?」を、最後だけはアルヴィンが言ったのかもしれない。トーマスがアルヴィンを追いかけていた事に気付いてくれたから、幽霊のアルヴィンは天国へ帰る事が出来たのかなと。それ故に「追いかけていたのは、君じゃなくて僕だった」というキャッチコピーになるんだ…!と気付いた時、自分の癖に対する嗅覚の正確さに我ながらドン引いた。BANANAFISHといいNO.6といいスリルミーといい、表面的にはA→Bに見えるが内面的にはB→Aだった、みたいなクソデカ感情を抱えた男二人の道を違えるエンド(死別含む)な物語好きすぎだろコンチクショー!三年前初見だったこの物語にピンときてた自分の嗅覚が末恐ろしい……しかもなんでどれも!キスシーン()が!あるんですか!SOMLにもあるなんて全く予想してなくて不意打ち食らったんですけど!?もうやだ自分の癖に正直過ぎるこのアンテナ………

 

演出・セットについて

壁のように本棚がずらっと並んだセットがとても印象的で、棚のひとブロック毎に照明仕込んであるのかな?場面毎にカラフルに変化するのが観ていて楽しかった。なんかクリスマスのアドベントカレンダーみたいだなと思った。実際棚から色んな物出てくるし。観てる方はワクワクするけど、いつどこから何を取り出すかという段取り覚えるのめっちゃ大変そうだなとも思った(主にアルヴィン役の俳優が)。本棚の壁と階段で半周が囲まれた盆がベースの形になっていて、色んな思い出が詰まった二人だけの世界を表しているみたいだった。二人の物語を探す物語、という内容にとても合った素敵なセットだったなと思った。

 

キャスト毎の感想

もつヴィン

ロミジュリぶり刀ミュ外では2作目の現地もっくんさんでした。ミュらまさももつディボも配信で見た侑子さんも、どちらかと言うと色気のある妖しげな雰囲気を纏った役という括りになると思うので、勝手に抱いている所謂もっくんさんらしい役しか見たことがなった。今作のもつヴィンはそれとは全く方向性の違う役なので、期待は存分にしていたけど、実際どうなるのかイメージは正直ついていなかった。

めっっっっちゃ良かった。いや彼の技術を以てすれば当然なんだけど、え、もっくんさんってもしかして何人かいます??レベルで全くの別人だった。日常の投稿で拝見している、いい意味で内向的なご本人の印象と、同じく内向的な印象のあるアルヴィンという役の相性最高じゃんという事に気が付いた。アルヴィンという役は表情が目まぐるしくころころと変わる役だけど、無邪気な子どものような表情からラストのトムを突き放すような激情まで本当に一人の人間がやってるんですか??レベルで振り幅が凄い。蝶を追いかけたりスノーエンジェル作ったり街に出る準備をしている時の表情なんか本当にピュアで可愛いのだ。よくよく考えたらアラフォー(ほんとに??)の成人男性に対して可愛いとは?と思うけど可愛いとしか形容できない。かと思えば大学進学を機に故郷を出ようとするトムのナンバー「バタフライ(蝶)」の時の感情が抜け落ちて取り繕うような表情、返ってこないクリスマスカードを出し続ける寂しそうで切ない表情など、静のお芝居で本当に繊細な表現をされている。巧みさはあるんだけど計算されてる感じは全くない。あと、父親が亡くなって本屋を継ぐ契約をした時のトムにどこか縋るようで将来への不安が覗く迷子のような表情とか、街に出ようとした直前でトムに突き放された時の絶望のどん底に落ちた表情とか、どの瞬間を切り取っても一挙手一投足全てアルヴィンそのものだった。あぁ、キャリアの違いってこういう事なんだな、とストンと腑に落ちる本当に素晴らしいお芝居だった。

そこからのラスト、死の真相を尋ねるトムを激しく突き放すような芝居が、先の繊細な芝居との緩急も相まって非常に際立っていたように感じられた。怒っているようで、だけど寂しさや哀しみも滲ませているような、激しさの中にも細やかに作られた表情に胸が締め付けられる思いだった。トムの事をただ突き放すだけじゃなくて、本当に大切に思っていたんだという事が、あの表情と仕草で全部伝わってきた。もつヴィンのお芝居を生で観ることができて本当に良かったと思った。

まきトム

何気に刀ミュ外のミュージカルで観るのは初でして、すっごくワクワクしながら観に行って、やっぱひかるくんの歌声好きだわ…と沼落ちの自覚をして帰ってきました。ミュージカル歌唱してるひかるくんの声がシンプルに超好みです。いや、パライソ再演でまき伽羅ちゃんの白き息を現地で聴いた時から好きでした。分かってたんです。FC入って2年も経ってて飛び込みで大阪ダム観に行ったぐらいには好きだったんです。無駄な抵抗をしてただけで。

それはさておき、まきトムの歌声は初めて聴くタイプの柔らかくて優しい響きで、自分がまだ知らない牧島輝がいる…!と感動した。舞台上のひかるくんってどちらかと言うと、カリスマ性があったりクールで孤高な役が多い印象があって、それに合わせて声も鋭さや強さのあるイメージだったし実際そういう表現をしてきたと思う。だけど今回のトーマスという役は一般的な現代人らしい弱さや悩みを抱えたキャラクターで、自分が見てきた印象とはだいぶ方向性が異なる。だからそれに合わせて声の出し方を変えてたと思う。個人的にひかるくんの歌声は、矢のように空気を引き裂いて真っ直ぐ通る硬い響きの声、というイメージがある。その声がまきトムとして歌った時、芯の硬さは残しつつその周りに纏わせた響きが柔らかくなっていた、という印象だった。そして対外的に話す時とアルヴィンに向かって話す時との声の表情変化もきめ細やかで、ひかるくんの生真面目さが感じられるお芝居だった。そしてそういう所がトムらしいなとも感じた。特にそれを感じられたのはアルヴィンが街に出てこようとしている場面。来ないでくれ、という思いとは裏腹に表情を取り繕いながら色々手配をしていざアルヴィンが出発となった直前に来ないでくれ!と突き放す。この場面のトムの行動は、事実だけを見ればどう考えても人でなしと非難されて然るべきものだし、トムという人物への好感度はどん底まで落ちるだろう。演じ方次第でトムというキャラクターへの印象が大きく変わってしまう、難しい芝居が求められるのは想像に難くない。まきトムのお芝居は、アルヴィンに対してどうにか義理を通そうと無理をしたけど最後の最後で限界が来てしまった、というように見えた。恋人にアルヴィン来訪の事が言えずズルズルと引き伸ばしてしまった行動も、街を出た時にアルヴィンと共に置いてきた過去の自分が彼の来訪によって一緒に出てきてしまう事への恐怖があったのではないかな、と思った。(一度恋人を連れて帰郷した時に挨拶はしてるけどおそらく短時間でそこまで親交を深めてはいないと思うので。)つまりはトムの心の弱さが招いた事だと言えるが、まきトムのお芝居からは、どこにも行けない迷子の切迫感のような形でその弱さが表現されていたように思う。不義理な行動に対する嫌悪感と同時にアルヴィンへの愛情も感じられる、憎みきれない人間味のある弱さとして受け取る事ができてトムに心を寄せる事が出来たように感じた。

その前提のまきトムがあってからのラスト、アルヴィンに突き放されるトムの後悔や哀しみという感情がより際立って伝わってきた。自分がアルヴィンにしてしまった仕打ちがずっと心に引っかかっていて、それがアルヴィンの死という形で返ってきたのだと業を背負うような表情で涙を流すまきトムの顔が未だに忘れられない。自分が先に突き放してしまったから、アルヴィンが何を考え何故死んだのか、永久に真相が分からないということが自分に与えられた罰なんだという表情でボロボロと泣きじゃくるまきトムから苦しさが伝わってきて、気づいたらそれに匹敵するぐらい自分も泣いていた。でもあんなに涙ボロボロ流しながら芝居の段取りを飛ばすことなく冷静に進行させていくの、役者さんってすげぇな…とも頭の片隅思っていた。そしてラストに歌う「雪の中の天使」は、アルヴィンとの和解を経て出会った子どもの頃のような澄んだ瞳で二人で楽しそうに歌い上げる姿になっていた。この作品はトムが人生を振り返る形で描かれているから登場するアルヴィンはトムの想像が作り出した姿だけど、心の中に残っていたわだかまりを解決することが出来たんだなと思うと今度は温かな涙が流れてきた。というか終盤まきトムに引っ張られてずっと泣きっぱなしだった。まきトムに出会えて心から良かったと思えた。

 

アフトの記憶

セット裏手から二人登場、椅子に座っひかるくんがて開口一番、本番後のハイになってるから3秒目が合ったら殴りかかっちゃいそうと言って一同笑い

ラスト泣いてるところでしょっちゅうコンタクトが流れるひかるくん「多分カーブが合ってないんですよ、誰か合うの探してくれない?」もっくん「物語じゃなくてコンタクトを探すの?www」

稽古場での話、納得いく解釈が出来ないと不機嫌な表情になってしまうひかるくんをフォローしてくれるもっくん、もっくんの大人な振る舞いに俺まだ子供だなーって思ったってひかるくんが言ってた気がする

スノーエンジェル作る時にスタッフさんが降らせてくれる雪(紙吹雪)が口に入るため梅干しみたいな顔でやってる事をバラされたもっくん「そっちはいいよね、落ちてくる場所からズレてるから」たまに塊でドバっと落ちてくる時大変とのこと「(ひかるくんが)セットの台の上からそれを見下して笑ってくるんですよ!」大阪の会場は2階席があるからその顔が見られる?!と少し焦るもっくんが面白かった

棚からクリスマスのモール飾りを出して飾りつけるシーン、ペア初演の3年前は捻れたり引っかかったり上手くいかない事が多かったが今回はスムーズに行けたとのこと

飾り付けが上手くいってない気配を背後で察知できるまきトムは、飾り付けができるまで執筆に悩みつつ書き出そうとしてはペンを置く芝居をひたすら繰り返して永遠に書き出せなかったとの事

ペア初日公演中セットの下手側の張り出した台のネジが外れた事件があり終演後ひかるくんと演出家と演出助手の方で検証して、アルヴィンのあのダンス(その台の上で床に着けながら脚を左右に大きく動かす)じゃね…?となった話を聞いたもっくん「えっ?俺が犯人なの?!」

もつまきペアの仲の良さが端々から伝わってくる抱腹絶倒なアフトでした

 

総括

3年前もつまきペア初演は色々タイミングが合わなくて見送ったのだが、作品を見てこれを見るべきタイミングは3年前じゃなくて今だったんだ、と勝手に運命を感じた。3年前の私じゃなく色々経験して変わった今の私で、SOMLに出会えて良かったなと心から思ったし、またこの先にこの作品を見る機会があればその時は全然違う受け取り方をするんだろうな、とも思った。観る人のパーソナリティによって色んな見方のできる不思議で素敵な魅力を持った作品だった。この作品を見た後、私も中学高校時代の大切な友人に会いたいと思った。

降っては溶けるパウダースノーのような、どこか儚くて優しいクリスマスの物語に、心の芯が暖められた濃密な110分だった。この作品に出会えて良かったと心から思う。また別のタイミングで観に行けたらいいな。

ひとり語り その2

現地観劇直後の興奮冷めやらぬ感想は既に書き殴ったので、ここでは配信(12/17 13時公演)も見返して思った事などを備忘録的に書きたいと思う(Xで呟いていたものも含む)

読んでも読まなくてもどちらでもいい第一弾のまとめはこちら

ひとり語り - 舞台感想置き場

 

くるむくんの芝居について

配信回だけでも3箇所ぐらい噛んでたんだけど噛んでも役は崩さず続けてたから、むしろそういう芝居のように観ることが出来てほとんど違和感なかった。

ウシロメタサが拐われる場面、「さ、拐われるぅ〜〜!」の言い方が妙に棒っぽいの、意図的かなと思った。心の何処かで拐われる事が満更でもない気持ちがあったのかなと。

現地で観た12/14昼公演のアドリブで、閉じ込められたウシロメタサが外の関係者たちと交渉する場面の「はい、上司に伝えておきます」、ジブンギライにツッコミする場面の「ってかあのポーズ何ィ?! もっとバリエーションなかったのぉ?!」好き。

ウシロメタサがジブンギライに振り回されたりする場面で少し声が裏返る部分がちょくちょくあるんだけど、その声好き。もっと聞かせて。

同じくウシロメタサが交渉する場面の台詞、どっかの上司と部下のやり取りとか電話対応でめっちゃ聞きそうな、いかにも口先だけですみたいな投げやりな言い方でクセになる。

ジブンギライがウシロメタサの真似をする場面のあざと可愛い仕草と表情、何気にそういうの今まで舞台では見た事なかった気がする。(チャリブラは可愛い系だったけどあざと系ではなかったので)可愛いにあざといを掛け合わせるんじゃない!余計に可愛いかよ!!

ジブンギライが「……2人で死んでみるか?」って言った後の2匹の曲の歌い方、追いかけっこをする様子があまりにも無垢で無邪気なんだよね。特に「このまま今が続いてと/願って泣いているの」に込められたウシロメタサの祈りのような願いを感じる歌い方が合わさって物凄く切なくなる。ウシロメタサが何をしようとしているのか察してしまうから。だからウシロメタサがジブンギライを殴って気絶させる展開は読めてたけど、殴る直前の覚悟を決めた表情を見た時点で涙が止まらなかった。いつの間にこんな演技出来るようになってたの聞いてない。

ウシロメタサを殺そうと寝かせる場面でそっと肩を抱え優しく後頭部に添えるジブンギライの手、気絶したジブンギライのおそらく肩の辺りを掴み顔の横に添えられたウシロメタサの手。どちらも相手に対する深い情を感じられる手の使い方だったのが好きだった。

終盤、仕切り直しの儀式を待つウシロメタサが、妄想のイキタガリと会話したりジブンギライからの手紙読んだりして動揺する場面での彷徨う手の演技がとても良かった。服を握ったり身体を触ったり何かを掴もうと握ったり開いたりと、とにかく手が落ち着かない動きをしているんだけど、それがウシロメタサの心情を言葉以上に雄弁に表していた。

今回目線の使い方と表情がとても良かった。事実を淡々と語りながら時折嘲笑するかのようなウシロメタサ、おどおどして視線を彷徨わせるジブンギライ、悲しみと痛みを共有して大切な存在になった互いを見る2匹の穏やかな瞳。どれもとても繊細に表現されていた。くるむくん自身が憑依型だからどの作品でも本人とは全く異なる顔になるのが好きなんだけど、今回はその域を超えていたというか。今回に関しては視覚的な顔つきの変化はあまりなかったけど纏う雰囲気が変わるような、今まで以上により内面に役が憑依しているような、そんな印象を受けた。個人的に1番好きだったのは、ジブンギライと心を通わせた事で生きたいという気持ちが掘り起こされて儀式に対する心境が揺れている時の、迷子のようにキョロキョロして怯えている目の動き。くるむくんの演技でその表情見るの超癖で大好きなんだけど、自分の「いきかた」という道に迷って迷子になっているように見えて涙腺が決壊した。

 

照明・セットについて

今まではどちらかというと照明や舞台セットは演者のサポートをするもの、世界観を作り上げる機構という認識があった。だが今回は一人舞台という特性もあるのか、照明や舞台セットそのものが演者の一部となって演技をしているかのような、そんな印象を受けた。

セットは柱の建て方が工夫されていて、上部に渡された梁や中央の踊り場舞台との位置関係でどの柱が前で後ろなのか一瞬錯覚して分からなくなる時があった。トリックアートのような舞台セットがとても面白かったし、敢えてそのように作られているのかなと思った。

そして死角となるような場所も多分意図的に多く作られていて、そこを使うことでより自然に役の切り替えが出来るようになっていたなと感じた。また照明が当たる事で表れる陰影が状況や心情をより鮮明に描き出しているようだった。

おそらく過去の事件の顛末をウシロメタサが話す場面だったと思うけど、下手の小舞台奥を青いスポットが照らしてゴボゴボという水音がフェードインし台詞に合わせて音がカットアウトした瞬間に少量のスモークがモワッと焚き上げられた演出があった。舞台上に居ないイキタガリの最期の様子が目の前にありありと描写されるような演出でゾクッとした。

蔵から出た後仕切り直しの儀式を行うため待機部屋に向かうウシロメタサを照らす照明が、交互に明滅を繰り返すスポットライトのみだったのが良かった。直前までの明るく色彩豊かな照明と対照的で、ウシロメタサの心情の変化がよく表されていたように感じた。

今回ウシロメタサが青、ジブンギライがオレンジというカラーで照明が使い分けられていた。2回目の儀式の場面で乱入したジブンギライを指し示すように客席中央の通路にオレンジのスポットライトが当てられた際、ちょうど自分の席列付近に当てられていたのとくるむくんの演技が相まって本当に真横にジブンギライがいるかのように錯覚した。照明の当て方がいきなりその場所を照らすのではなく、客席前方から移動させてその場所に止まる、という方法だったのも、ウシロメタサの視線を共有しているような感覚になりジブンギライがそこにいるかのように感じた要因だったのかなと思う。

ラスト、毛布を被りながら「当てにならなさすぎるな」と呟くウシロメタサに青とオレンジ両方のライトが当てられていて、横で寝てるだろうジブンギライの存在とくるむくん自身がどちらでもある(1人2役である)ことを暗示し様々な物語が岡宮来夢という一人の役者に集約されて終わる、そんな演出に思えて素敵だなと感じた。

 

脚本・演出について

まず福澤侑くん、振り付けしてくれて本当にありがとうございます。私はあなたの振り付けが大好きです。大好きな役者で大好きな振り付けが見られてこの上ない幸せでした。素晴らしいお仕事をしてくださりありがとうございました。

振り付けでも自然に役が切り替われるように工夫されているのが随所で分かり、演出とも合わさってノーストレスで色んな役を楽しむことができたのが良かった。

そして何よりも末原さんの脚本。今までで観た作品の中で1番言葉遣いが好き。台詞全部文字起こしして文章として読みたいぐらい大好きでした。文章の巧拙という基準は多少あれど最後は相性、好みだと思うので、私にとってはとても相性が良く素晴らしい脚本だったことがとても嬉しかった。

ウシロメタサがジブンギライに言う「君のあまりのクズさにツノがムズムズして生え替わりそうだよ」という台詞。苛立ちとか落ち着かなさを生え替わりのむず痒い感覚として表現するユーモアのセンス、とても好みです。仔山羊であるウシロメタサの特性を絡めつつツッコミ属性なキャラクター性を表現する言葉選びが上手いなと思った。

ウシロメタサがジブンギライに自分を殺して欲しいと頼む場面の「やけのやっぱち、自暴自棄で」という言い回し。この場面では、自暴自棄でどうでも良くなっておあつらえ向きな生贄の儀式があったからそれで死のうと思った、というウシロメタサの意思を伝えることが目的なので、それだけで言えば「やけのやっぱち」というフレーズは無くても成立する。「やけのやっぱち」「自暴自棄」という言葉を比較すると、イントネーションやリズム感が似ており、語尾で韻も踏んでいる。更に言えば、本来「やけっぱち」と表記する所を「やけのやっぱち」としたのは完全なる末原さんの造語である。そのためこのフレーズがあることによって、台詞としてのリズム感が生まれ台詞回しがよりスムーズに聞こえるようになり、ウシロメタサの意思をより強調していると私は感じた。この言葉遊び的な言い回しはぶっちゃけ個性とセンスで成り立つものだと思うので、こういう言葉遊びができる末原さんのセンスめちゃくちゃいいなと感激した。

終盤でウシロメタサが事件当時の事を回想する場面で出てくる「時間と共に閉じ込められた」という表現。狭く閉ざされた柱時計の中で時を刻む音と共に世界から隔絶されたような感覚と恐怖を表現しているのだが、その情景がこの短いフレーズに凝縮されている。ここは余分な装飾語は無しに非常に端的でそれでいて的確に表現されている。この表現の加減の使い分けがとても巧妙で、話の盛り上がりや緩急を感じられる言葉の使い方がとても上手いなと思った。

Amulet前の4曲目、物語のラストで歌う曲の歌詞がとても刺さったし好きだった。刺さった部分については第1弾で書いてるので割愛する。歌詞を見ると、糸・ほつれる・縫い合わせる、といった裁縫にまつわる言葉が出てくるのがとても印象的だった。仕立て屋になる夢を諦めたウシロメタサが、自分を受け入れて仕立てに関わる言葉で希望を歌う姿が、物語の結末としてとても美しかった。

ひとり語り

来る12/14、念願のクルム童話を観劇してきた。

マチソワで2回観劇することが出来たのだが、1回目で出るもん全部出るぐらい出し尽くしたからもう大丈夫だろうと2回目観てやっぱりグシャグシャの酷い顔になってた。端的に言うと、めちゃくちゃぶっ刺さった。

 

以下、思いつくままに溢れ出てきたものを書き連ねた乱文となってる。最低限の文章のまとまりは意識したが、自分の思考もとっ散らかっているので非常に読みづらいと思う。ご容赦願いたい。

 

ひとまず、くるむくんの演技、推しの贔屓目入ってるけどめちゃくちゃ良かった。いや噛んだ所もあったけどそんなん気にならんぐらい全部良かった。1人で何役か演じるのは比叡山の朗読劇以来だったから、上手くはなってるだろうけどどこまでできるのだろうかと思っていた。実際に観劇して、フォロワーさんの言ってた「くるむの声って200種類あんねん」というのを実感した。事前にツダケン以外の声はガヤ含め全て本人と聞いていたが、知ってても理解が追いつかないぐらい全然別人だった。あなたそんなに声色持ってたんですか…?ってスペキャ顔してたと思う。今まで聞いたことの無い声ばかりだったしその声のまま歌うの?!えっ歌ってるわ?!と幕開いてして暫くはひたすらびっくりしていた。

次第に慣れてくると、声色以外にも喋り方の演じ分けがしっかりされていることに気付いた。間の取り方や緩急の付け方など、キャラクター毎の掘り下げが深くなされていて、誰を演じるかによって瞬時に表情も声も話し方もガラッと変わるのが観ていて新鮮だった。おそらく演じる機会が無さそうな、神官や衛兵のようなキャラの演技が観られたのがオタク的にはめちゃくちゃ美味しかった。個人的に神官の声色がツボです。

そしてくるむくんが飛んだり跳ねたり走ったりする時に起こる振動が、客席に物理的な振動としてダイレクトに伝わって来たのが非常に興奮した。その振動によって自分が物語の世界に入ったような感覚が一層強くなった。これはあの小規模な箱だからこそ感じられるもので、そこにこの作品がミクサで掛けられた意味の1つがあるように感じた。あと物理的に距離が近いからめちゃくちゃ舞台上のくるむくんと目が合うし、くるむくん自身もいつも以上に客席見ようとしてたのが感じられた。そんなんされたらオタクは死ぬ。最高だった。

舞台上にはくるむくん1人しかいないので立ち位置等を瞬時に替えてウシロメタサだったりジブンギライになる訳だが、どの場面でもその時点で彼が演じていないキャラがちゃんと見えていた。まるで分身しているか残像が見えているかのように錯覚する程に。くるむくん自身もきちんと相手が見えているから観客である我々にもそれが伝わってくる。特に印象に残っているのが、ジブンギライがウシロメタサに馬乗りになって殺そうとする場面だ。ジブンギライが彼を殺しきれない葛藤から手が震えて爪が当たらないのを彼が避けたからだと八つ当たりのように叫ぶ下で、全く動かない自分の上を掠っていく爪を見てジブンギライの心の内を知り涙を流すウシロメタサが見えた。見えたからこそ、一緒に死のうと言ったジブンギライや、彼を殴って気絶させたウシロメタサの心の内がより深く自分の中に入り込んで来て心が震えた。

そしておそらく、末原さんの演出もそう見えるようにかなり工夫されているのだと思う。さり気ない仕草やセリフ回し、自然なポジション移動で、切れ目なく自然にキャラが切り替わるようにされているのだなというのを随所に感じた。

どの役にしても心情に合わせて目まぐるしく顔も声も表情が変わるので、くるむくんの引き出しの多さをひたすらに堪能出来る最高の85分だった。

 

そして脚本・演出。私には初めての方かつ独創性の強い世界観だと思っていたので、自分に合うか少し不安な部分があった。まぁそれは杞憂に終わった訳だが。結論から言うと物凄く波長が合った。

脚本はかなり癖のある言い回しが多用されていて、人によってはそこが少し難解に感じられるようだった。言葉の繰り返しや相反する言葉の並列が独自の世界観を創り出しているのだなと私は感じ、推測に過ぎないが彼の脳内の一端を垣間見たような気がした。きっと彼の脳内には数多の言葉が次々と湧き出ていて、彼のオリジナルルールによって一見矛盾するような言葉たちも矛盾することなく存在しているのではないかなと。どこか言葉あそび的に言葉を繋げていってそこから産まれ出たアイデアからまた枝葉のように広がる。その世界の一端が、あの脚本や演出に詰め込まれていたように感じた。キャラクターのセリフにも沢山のアイデアや感情が詰め込まれていて、時に思考が飛躍した言葉として表現されているため省略された言葉たちもあったのではないかなと思う。他にも、文脈とか関係なしにそのキャラの感情が大きく揺れ動いた言葉のみがピックアップされてる事ようなセリフ回しもあったように思う。それが独特のリズム感とキャラクター性を産み出していると私は感じた。彼のその感性は私の感性と非常に相性が良く、私が世界観に没入しやすかった要因の一つではないかと思う。何となくだが、彼の思考回路と自分の思考回路が結構近しいような気がしたのも、私にこの作品が刺さった理由だと思った。

そして個人的に好きだったのは、イキタガリのキャラクター性だ。ウシロメタサにとっては自罰意識が作り出した都合のいい幻像、ジブンギライにとってはコンプレックスを抱き続ける在りし日の残像として、全く異なる姿で描かれていたのが印象的だった。姿は異なるがどちらも、意図的に本質が見えないようベールで包んだ姿、すなわち向き合うことから逃げてきた自分の姿として描かれていたと思う。そんな2匹が出会ったことで、それぞれが己の内に抱えていたイキタガリ像のベールが剥ぎ取られ本質が顕になる。それは誤魔化し続けてきた自分と、イキタガリという鏡を通じて向き合うということであった。だから向き合った後の彼らには、イキタガリの声が聞こえなくなる。ベールが被され歪んだ鏡が生み出していた声だったからだ。イキタガリを彼ら自身のもう一人の自分という存在を映す鏡として描いていたのが、物語の構成として非常に面白いと感じた。

言葉の使い方としては1箇所、儀式を中断され混乱する神官たちの「爆弾で殺せ!放射能で殺せ!」という台詞を聞いた瞬間、ドキッとした。何故ならその瞬間私の脳裏には、今この瞬間も止まない戦争の情景が浮かんだからだ。ガザ地区の昼夜問わず止まない空爆核兵器の影がチラつくウクライナとロシアの戦争が、それらの言葉から連想された。末原さんがどこまで意図しているのか分からないが、脚本が上がった時期を考えてガザ地区空爆は始まっていなかっただろうが、ウクライナとロシアの事はもしかしたら少しは意図して放射能という言葉が使われたのかもしれない、と思った。

またこの作品において神官はナグイツの村の権力者として描かれている。そしてその立場を、貧しい身寄りの無い子供を利用することで維持していた。それらには権力者の一存で引き起こされる争いや、そこに巻き込まれる社会的弱者というこの現実世界の構図がそこに凝縮されているように感じる。村の嫌われ者の狼という存在も、社会的弱者として扱っていいだろう。その視点から見ると、権力者の身勝手な支配に抗おうとする弱者たちの物語という見方もできるのかなと。もしかしたらそんな裏テーマが隠されていたのかもしれないなどとも思った。まぁ発想が飛躍し過ぎるのが私の悪い癖なので、穿ち過ぎた見方かもしれないが。

 

あとは舞台セットと照明。セットは意図的に死角を作るように設計されているように感じた。その死角を活かしてキャラクターの切り替えを行えるように計算されているのだろうなと思う。そしてそこに照明が当たると光と影がはっきりと分かれて現れる。それがキャラクターの心情を補足する表現の一環として存在しているのが印象的で美しいと感じた。セット担当がファンタスティックスの方だと聞いて期待していたが、あの時観たものと同じように温もりを感じる空間作りで心が踊った。客席にも吊るされた裸電球の小さな照明が、あの時のように観客を舞台上の世界へと誘うようで楽しかった。他にも扉が開く時にくるむくんの背後から射し込む神々しさを感じる光や、回想シーンのおどろおどろしさを感じるような色の使い方など、作品の世界観をより魅力的にする光の使い方でとても好みだった。

 

 

ここからは自分語りとなるので更に見苦しくなると思うが、ご容赦願いたい。

私個人としては観劇中、ウシロメタサの葛藤が自分の過去と重なる部分が多すぎて、塞がってたかさぶたを抉り返されたような、パンドラの箱を無理やり開けられるような感覚になって見ていて物凄く苦しかった。

私は小中の頃不登校になっていたのだが、その時に感じていたことがウシロメタサと同じ、「生きていたくない」だった。
きっかけは異なれど同じ境地に立ったことのある自分からすると、「生きていたくない」≠「死にたい」なのだ。生きていくことが苦しくて苦手すぎて、能動的に生きていくことを辞めたい、その方法の一つとして「死」があるという感じだ。だから「死」そのものが目的ではない。なんなら自死を選ぶ程の覚悟もないから、毎日ただ漠然と時間が過ぎていくのを感じつつ、どっちつかずの自分自身に嫌気を感じながらもそんな自分と向き合うことから逃げてまた堂々巡りの日々に戻る。そんな感じだった。
これらが、ウシロメタサとジブンギライが逃げる場面の歌の歌詞やウシロメタサの独白にほとんど重なっていた。だからウシロメタサの言動は過去の自分の姿を追体験しているかのようで、真綿で首を絞められているような感覚だった。
そんなウシロメタサがジブンギライと出会って、奥底に仕舞いこんでいた「生きたい」という気持ちが揺さぶられ、最終的には「生きていく」ことを決意する。その姿に過去の自分も救われたような気持ちになった。その後に続く歌の歌詞にある「光も影も縫い合わせ」という言葉が、どんな自分も受け入れてそのままの自分で生きていけばいい、そうやって生きていく覚悟を決めるために背中を押してもらえたような気持ちになり、もう涙が止まらなかった。さっきまで自分を締め付けていた真綿が、いつの間にか自分を優しく包んでくれたような感覚になった。開いたパンドラの箱の底にはちゃんと、希望が残っていた。
自分としては過去に折り合いつけて生きてきたつもりだったけど、この観劇を通して本当の意味で向き合って受け入れることが出来たのかなと思えた。今でもやっぱり「生きていく」ことは苦手だけど、それでも自分なりの道を進んでいきたいなと思う。
本当に一生の宝物になるような作品を、少し早めのクリスマスプレゼントとして貰ったような、そんな幸福な観劇体験だった。