ひとり語り

来る12/14、念願のクルム童話を観劇してきた。

マチソワで2回観劇することが出来たのだが、1回目で出るもん全部出るぐらい出し尽くしたからもう大丈夫だろうと2回目観てやっぱりグシャグシャの酷い顔になってた。端的に言うと、めちゃくちゃぶっ刺さった。

 

以下、思いつくままに溢れ出てきたものを書き連ねた乱文となってる。最低限の文章のまとまりは意識したが、自分の思考もとっ散らかっているので非常に読みづらいと思う。ご容赦願いたい。

 

ひとまず、くるむくんの演技、推しの贔屓目入ってるけどめちゃくちゃ良かった。いや噛んだ所もあったけどそんなん気にならんぐらい全部良かった。1人で何役か演じるのは比叡山の朗読劇以来だったから、上手くはなってるだろうけどどこまでできるのだろうかと思っていた。実際に観劇して、フォロワーさんの言ってた「くるむの声って200種類あんねん」というのを実感した。事前にツダケン以外の声はガヤ含め全て本人と聞いていたが、知ってても理解が追いつかないぐらい全然別人だった。あなたそんなに声色持ってたんですか…?ってスペキャ顔してたと思う。今まで聞いたことの無い声ばかりだったしその声のまま歌うの?!えっ歌ってるわ?!と幕開いてして暫くはひたすらびっくりしていた。

次第に慣れてくると、声色以外にも喋り方の演じ分けがしっかりされていることに気付いた。間の取り方や緩急の付け方など、キャラクター毎の掘り下げが深くなされていて、誰を演じるかによって瞬時に表情も声も話し方もガラッと変わるのが観ていて新鮮だった。おそらく演じる機会が無さそうな、神官や衛兵のようなキャラの演技が観られたのがオタク的にはめちゃくちゃ美味しかった。個人的に神官の声色がツボです。

そしてくるむくんが飛んだり跳ねたり走ったりする時に起こる振動が、客席に物理的な振動としてダイレクトに伝わって来たのが非常に興奮した。その振動によって自分が物語の世界に入ったような感覚が一層強くなった。これはあの小規模な箱だからこそ感じられるもので、そこにこの作品がミクサで掛けられた意味の1つがあるように感じた。あと物理的に距離が近いからめちゃくちゃ舞台上のくるむくんと目が合うし、くるむくん自身もいつも以上に客席見ようとしてたのが感じられた。そんなんされたらオタクは死ぬ。最高だった。

舞台上にはくるむくん1人しかいないので立ち位置等を瞬時に替えてウシロメタサだったりジブンギライになる訳だが、どの場面でもその時点で彼が演じていないキャラがちゃんと見えていた。まるで分身しているか残像が見えているかのように錯覚する程に。くるむくん自身もきちんと相手が見えているから観客である我々にもそれが伝わってくる。特に印象に残っているのが、ジブンギライがウシロメタサに馬乗りになって殺そうとする場面だ。ジブンギライが彼を殺しきれない葛藤から手が震えて爪が当たらないのを彼が避けたからだと八つ当たりのように叫ぶ下で、全く動かない自分の上を掠っていく爪を見てジブンギライの心の内を知り涙を流すウシロメタサが見えた。見えたからこそ、一緒に死のうと言ったジブンギライや、彼を殴って気絶させたウシロメタサの心の内がより深く自分の中に入り込んで来て心が震えた。

そしておそらく、末原さんの演出もそう見えるようにかなり工夫されているのだと思う。さり気ない仕草やセリフ回し、自然なポジション移動で、切れ目なく自然にキャラが切り替わるようにされているのだなというのを随所に感じた。

どの役にしても心情に合わせて目まぐるしく顔も声も表情が変わるので、くるむくんの引き出しの多さをひたすらに堪能出来る最高の85分だった。

 

そして脚本・演出。私には初めての方かつ独創性の強い世界観だと思っていたので、自分に合うか少し不安な部分があった。まぁそれは杞憂に終わった訳だが。結論から言うと物凄く波長が合った。

脚本はかなり癖のある言い回しが多用されていて、人によってはそこが少し難解に感じられるようだった。言葉の繰り返しや相反する言葉の並列が独自の世界観を創り出しているのだなと私は感じ、推測に過ぎないが彼の脳内の一端を垣間見たような気がした。きっと彼の脳内には数多の言葉が次々と湧き出ていて、彼のオリジナルルールによって一見矛盾するような言葉たちも矛盾することなく存在しているのではないかなと。どこか言葉あそび的に言葉を繋げていってそこから産まれ出たアイデアからまた枝葉のように広がる。その世界の一端が、あの脚本や演出に詰め込まれていたように感じた。キャラクターのセリフにも沢山のアイデアや感情が詰め込まれていて、時に思考が飛躍した言葉として表現されているため省略された言葉たちもあったのではないかなと思う。他にも、文脈とか関係なしにそのキャラの感情が大きく揺れ動いた言葉のみがピックアップされてる事ようなセリフ回しもあったように思う。それが独特のリズム感とキャラクター性を産み出していると私は感じた。彼のその感性は私の感性と非常に相性が良く、私が世界観に没入しやすかった要因の一つではないかと思う。何となくだが、彼の思考回路と自分の思考回路が結構近しいような気がしたのも、私にこの作品が刺さった理由だと思った。

そして個人的に好きだったのは、イキタガリのキャラクター性だ。ウシロメタサにとっては自罰意識が作り出した都合のいい幻像、ジブンギライにとってはコンプレックスを抱き続ける在りし日の残像として、全く異なる姿で描かれていたのが印象的だった。姿は異なるがどちらも、意図的に本質が見えないようベールで包んだ姿、すなわち向き合うことから逃げてきた自分の姿として描かれていたと思う。そんな2匹が出会ったことで、それぞれが己の内に抱えていたイキタガリ像のベールが剥ぎ取られ本質が顕になる。それは誤魔化し続けてきた自分と、イキタガリという鏡を通じて向き合うということであった。だから向き合った後の彼らには、イキタガリの声が聞こえなくなる。ベールが被され歪んだ鏡が生み出していた声だったからだ。イキタガリを彼ら自身のもう一人の自分という存在を映す鏡として描いていたのが、物語の構成として非常に面白いと感じた。

言葉の使い方としては1箇所、儀式を中断され混乱する神官たちの「爆弾で殺せ!放射能で殺せ!」という台詞を聞いた瞬間、ドキッとした。何故ならその瞬間私の脳裏には、今この瞬間も止まない戦争の情景が浮かんだからだ。ガザ地区の昼夜問わず止まない空爆核兵器の影がチラつくウクライナとロシアの戦争が、それらの言葉から連想された。末原さんがどこまで意図しているのか分からないが、脚本が上がった時期を考えてガザ地区空爆は始まっていなかっただろうが、ウクライナとロシアの事はもしかしたら少しは意図して放射能という言葉が使われたのかもしれない、と思った。

またこの作品において神官はナグイツの村の権力者として描かれている。そしてその立場を、貧しい身寄りの無い子供を利用することで維持していた。それらには権力者の一存で引き起こされる争いや、そこに巻き込まれる社会的弱者というこの現実世界の構図がそこに凝縮されているように感じる。村の嫌われ者の狼という存在も、社会的弱者として扱っていいだろう。その視点から見ると、権力者の身勝手な支配に抗おうとする弱者たちの物語という見方もできるのかなと。もしかしたらそんな裏テーマが隠されていたのかもしれないなどとも思った。まぁ発想が飛躍し過ぎるのが私の悪い癖なので、穿ち過ぎた見方かもしれないが。

 

あとは舞台セットと照明。セットは意図的に死角を作るように設計されているように感じた。その死角を活かしてキャラクターの切り替えを行えるように計算されているのだろうなと思う。そしてそこに照明が当たると光と影がはっきりと分かれて現れる。それがキャラクターの心情を補足する表現の一環として存在しているのが印象的で美しいと感じた。セット担当がファンタスティックスの方だと聞いて期待していたが、あの時観たものと同じように温もりを感じる空間作りで心が踊った。客席にも吊るされた裸電球の小さな照明が、あの時のように観客を舞台上の世界へと誘うようで楽しかった。他にも扉が開く時にくるむくんの背後から射し込む神々しさを感じる光や、回想シーンのおどろおどろしさを感じるような色の使い方など、作品の世界観をより魅力的にする光の使い方でとても好みだった。

 

 

ここからは自分語りとなるので更に見苦しくなると思うが、ご容赦願いたい。

私個人としては観劇中、ウシロメタサの葛藤が自分の過去と重なる部分が多すぎて、塞がってたかさぶたを抉り返されたような、パンドラの箱を無理やり開けられるような感覚になって見ていて物凄く苦しかった。

私は小中の頃不登校になっていたのだが、その時に感じていたことがウシロメタサと同じ、「生きていたくない」だった。
きっかけは異なれど同じ境地に立ったことのある自分からすると、「生きていたくない」≠「死にたい」なのだ。生きていくことが苦しくて苦手すぎて、能動的に生きていくことを辞めたい、その方法の一つとして「死」があるという感じだ。だから「死」そのものが目的ではない。なんなら自死を選ぶ程の覚悟もないから、毎日ただ漠然と時間が過ぎていくのを感じつつ、どっちつかずの自分自身に嫌気を感じながらもそんな自分と向き合うことから逃げてまた堂々巡りの日々に戻る。そんな感じだった。
これらが、ウシロメタサとジブンギライが逃げる場面の歌の歌詞やウシロメタサの独白にほとんど重なっていた。だからウシロメタサの言動は過去の自分の姿を追体験しているかのようで、真綿で首を絞められているような感覚だった。
そんなウシロメタサがジブンギライと出会って、奥底に仕舞いこんでいた「生きたい」という気持ちが揺さぶられ、最終的には「生きていく」ことを決意する。その姿に過去の自分も救われたような気持ちになった。その後に続く歌の歌詞にある「光も影も縫い合わせ」という言葉が、どんな自分も受け入れてそのままの自分で生きていけばいい、そうやって生きていく覚悟を決めるために背中を押してもらえたような気持ちになり、もう涙が止まらなかった。さっきまで自分を締め付けていた真綿が、いつの間にか自分を優しく包んでくれたような感覚になった。開いたパンドラの箱の底にはちゃんと、希望が残っていた。
自分としては過去に折り合いつけて生きてきたつもりだったけど、この観劇を通して本当の意味で向き合って受け入れることが出来たのかなと思えた。今でもやっぱり「生きていく」ことは苦手だけど、それでも自分なりの道を進んでいきたいなと思う。
本当に一生の宝物になるような作品を、少し早めのクリスマスプレゼントとして貰ったような、そんな幸福な観劇体験だった。